都立工業高校から上位私立大学へ

こんにちは。塾長の沖津です。

 

今日のブログのタイトル。

 

私の教え子のことです。

(B-fatではなく、以前個人的に教えていた生徒です。)

 

ふと思い出したので書かせていただきます。

 

R君という男の話なのですが

 

彼が中学生だった時からの付き合いで、その頃から他の中学生と一緒によく話をしていました。

 

言ってしまえば、全然勉強のできない子で、工業高校に行くのがやっとでした。

 

中学を卒業してからも、数人の同級生と一緒に私のところに遊びに来てくれたり

 

時には家に押しかけてきたりと、仲良くしていました。

 

彼が高校2年生になり、その夏。

 

R君がいつものように家に押しかけて来て、

 

「俺、大学行きたいです!勉強教えてください。」

 

えっ?Rが?

 

と思いましたが、

 

「分かった、来週からでも始めよう。」

 

と、2年越しに私のところに生徒として戻ってきてくれました。

 

本気で受験勉強を始めたのは高2の冬。

 

一般的な受験生としては、決して遅くないですが

 

R君は、勉強をしてこなっかたタイプなので

 

遅いくらいでした。

 

始めは、勉強をなめていたようで

 

全然自分で勉強をすることもなかったですが、

 

2、3ヶ月かけて、ようやく受験生らしい1日を過ごせるようになっていました。

 

学校が終わって、すぐに塾に来て

 

少し自習をして、帰る前に図書館によって2,3時間勉強して帰る。

 

このルーティーンを繰り返していたようです。

 

そして高3の冬、センター入試。

 

ここで滑り止めを1校でも取ってくれ!

 

そう願っていましたが、全滅。

 

翌週から、今までより頻繁に私のところに来るようになり

 

これからどうすればいいか話し合ったり

 

不安定になっているR君の精神を落ち着かせるために、一緒にご飯を食べに行ったり。

 

そして、一般受験が全て終わり、結果が出る前に

 

R君から

 

「今までありがとうございました。ここまでこれたのは先生のおかげです。本当に感謝しています」

 

とLINEが来ました。

 

結果はもちろん大事だけど、それ以上のものをR君に与えられたような気がしてうれしかったです。

 

それから1週間くらいたったあと。

 

R君から電話がありました。

 

「受かってました!第一志望の大学!!」

 

不覚にも、私は友人と草津に旅行に行っていました。

 

東京にいたらR君のところにかけつけて

 

一緒に喜びたかったのですが

 

草津にいる私。

 

しかたがないので、一緒に草津に行っていた友人と抱き合いながら喜びました。

 

偏差値35の高校から、偏差値60まで成長したR君。

 

その工業高校史上で、最難関の大学進学だったようです。

 

今でも、よく遊びに来てくれて、塾の手伝いをしてくれたり

 

お互いの話をしたりしています。